生きる意味って何だろう。
私は昔から、心に大きく負担がかかった時、
「死にたい」ではなく、「ここから消えたい」「人生が終わって欲しい」と考えている。
特に疑問なのは、「人生が終わって欲しい」とはつまり、死を意味しているのに、
なぜ「死」を能動的に選択するニュアンスではないのだろうか、ということだ。
私自身は現状、その理由に見当がついていないが、心配に思っていることはある。
それは、死んだ後の身辺整理のことだ。
突然死んでしまうと、身の回りの後始末を誰が行うのだろうか。
私の財産、日記ノート、銀行口座やサブスクリプションのアカウントなど。
しかし、こうした身辺整理は能動的に「死ぬぞ!」と決意してから進めることもできる。この選択肢が浮かばなかったのは何故か。
能動的に死ぬことへの抵抗感があるのかもしれない。
脳内シュミレーションとして不意に想像するのは飛び降りと、毒物自殺だ。
しかし、怖い。死の瞬間の痛みや恐怖が怖いし、万が一、死を選んだことに後悔しても、後戻りできないことが心配になる。
やはり、死ぬこと自体に抵抗があるのだ。
また話が戻るが、何故「人生が終わって欲しい」なのだろう。
意識の上では、現実世界や「生きる」という行為に絶望し、諦めたい、ドロップアウトしたい、そんな気持ちなのだろうか。
「人生が終わって欲しい」は、「死にたい」よりも、死への願望が弱いように感じる。
終わらせないのは何故なのか。人生への希望が残っているからなのか?
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「人生が終わって欲しい」と考える一方で「人生の意味」を模索する姿は、他者事例で見た人生の希望、喜び、幸せが自分にも訪れるかもしれないと希望を抱いているからなのかだと思う。
そうした、自分なりの「得たいもの」の輪郭をはっきりさせていくのが良さそうだ