私は自分の誕生日をすごく大事に考えている。
私がこの世に生を受けた日で、私の誕生を、人生を祝う日。
尊いものだと考えている。
だから、自分自身をすごく尊く思うし、誇らしく思う日。
自分で完結すればいいのだけど、人にも祝ってほしいと思ってしまう。
他者にも私の人生を祝ってほしいし私の存在を尊く思い、存在に喜んでほしいと思う。
これは幼少期の体験が影響していて、
私の誕生日は親に蔑ろにされていた。
忘れられたり、思い出して「おめでとう」と言ってもらったり、プレゼントもケーキもあったりなかったりした。
妹の誕生日はしっかり覚えられていて、特別な日として認識されて、言葉もケーキ屋プレゼントも、用意する意識が感じられた。
子供の頃の記憶なので、もしかすると実際とは違っていて、妹の誕生日もぞんざいに扱われていたかもしれないけど、私の記憶では、親に、私の誕生した日を、特別に扱ってもらえなかった悲しさが残っている。
自分の存在を喜んで、尊んで、祝福してもらえなかった。
これに対する執着の表れとして、誕生日の祝福を強く求めてしまう。
私は損得勘定で人間関係を考えるし、人格も優れていないので周りから存在を尊ばれていない。歓迎されていないし、いてもらいたい!と思われるような人間ではない。だから、学生時代が終わって、なんとなくグループに属す、という環境が終わって、祝福してくれる人が年々減っている。
今年は下心を持った(私にとっては)どうでもいい異性からのみメッセージkが来た。きっと彼らにとって私の誕生日は「メッセージを送る口実」で、私の誕生日そのものに主眼が置かれているわけではないと思う。(もしかすると、私の存在を尊んで、誕生日を祝福してくれているのかもしてないが)
私が想いを寄せている友人からはお祝いの言葉がもらえなかった。私は彼らの誕生日の送った。私は彼らの存在に感謝しているから。
抱く想いに差があるの?
私は友人が少ないし、友人の履歴が学生時代からほとんど更新されていないから、私にとって「今」の友人でも、彼らにとっては「昔」の友人なのかもしれない。
想いを寄せる友人にも祝ってもらえない。親も相変わらず私には関心が薄い。
他人からの祝福に飢えているという気づき。
自分が良い人間であると、可愛らしい愛嬌のある人間であると、重要な人間であると、思われたいから。
しかしそのために振る舞いを変えると考えると?
なんか違う気がする。私は私の頭で考えて毎日生き、振る舞っている。
それを他人に愛されるためにチューニングするとどうなる?
何かいい作用になるかも知れない。
だけど、たったひとりの人間である私の個性が薄れない?
どうだろう
自分自身が、自分の良さを自覚し、愛していればそれでいいのでは?
自分に深く関わるのは、自分自身。
自分の人生を一番よく知れるのは自分。毎日を共に過ごす心と肉体。
1番身近な存在の自分自身が自分の良さを認めるのなら、それが本物の祝福となるのでは?
もちろん、基準は人それぞれだから、「自分の良さ」なんtrものは相当に恣意的。
他人からすると劣るのかもしれない。
だけど、自分自身がいい人間でかわいらしく愛おしく、重要な人間であると思えるのなら十分なのでは。
なんだか雑な思考整理だけど、なんとなく腑に落ちた。